2015年7月26日日曜日

新国立競技場 New National Stadium


先日ある人から
私が以前に書いた『空間構想事始』のなかの
第128項の『プロジェクト設計』の文章が
昨今の新国立競技場を巡るドタバタを
予見していたかのようだねと言われた。
私は原稿を書いてそれを本にしてしまうと
そのことから頭がすっかり離れてしまうので
読み返しみて
自分で言うのも変だが
あらためて建築における
設計以前の仕事の重要さについて
考えてしまった。
その頁を下に添付するので
興味をもたれた方は見ていただきたい。
実は
あのコンペをやるという発表があってすぐ
スペインから連絡が入った。
親友のリカルド・ボフィルから
コンペに参加してほしい
という連絡が入ったけれども
どういうコンペで
何を目指しているのかなどを調べてくれ
それによって参加するかどうかを
決めるということだった。
そこでいろ募集要項を見たり
建築や業界に詳しい友人に話を聞いたりなどして
自分なりの判断をした。
いろいろと総合してみた結果
奇妙に思ったのは
まず、あの規模の建築のコンペにしては
あまりにも設計期間が短いこと。
施設や神宮外苑を
どういう場所にしたいのかがイマイチ分からないこと。
設計与件が曖昧なこと。
応募資格の設定が権威主義的すぎること。
基本案を募集し
それとは切り離して
日本のゼネコンが基本設計や
実施設計をやる仕組になっていること。
などなどだった。
そこでリカルド・ボフィルには
次のような返事をした。
どう考えてもこのコンペは
オリンピックを誘致するための
最後のプレゼンテーションの場で見せる
非常に目立つ絵が欲しいだけだと思う。
つまり必ずしも
優れた建築が求められているとは思えないので
私たちは参加しない方がいいと思う。
それでその話はお終いになったのだが
不思議なことに日本では
今回のことに限らず
建築の設計にとって最も重要なことが
なぜか
おざなりにされることが多い。
重要なこととは
建築を建てようとする場所がどういう場所であり
どういう歴史や条件や可能性を持ち
そこに誰が何のために
建築をどのようなものとして
どのような方法で
社会的にどのような役割を果たすものとして
つくろうとしているのか
というようなことなのだが
そういう具体的な建築設計以前の
というより
構想や設計という仕事の指針とも根拠とも
理由とも意義ともなるそれらが明確でなければ
設計そのものが
本来はできない。
ところが日本ではしばしば
そのもっとも重要なことがらが
ちゃんと検討されずに
敷地の面積や
建築に必要な機能や面積や予算といった
最低条件ともいうべき具体的な条件のもとに
すぐに絵が描かれてしまう。
それはゼネコンが
いわゆる『ポンチ絵』と呼ぶもので
何となく見栄えはいいけれども
建築とは似て非なるもので
具体的にはプロジェクトを現実化させるための
だまし絵のようなものでしかないことが
しばしば起きる。
ひどいことに
今回の新国立競技場では
世界のそうそうたる建築家による案が
それと似たような扱いをされてしまった。
短い時間で
優先順位がよくわからない条件を与えられて
それでも案を考えられた方々は
本当に大変だっただろうと想像する。
世界の建築界を代表する
素晴らしい建築家の方々だったからこそ
曖昧な与件を
建築家の能力と経験と想像力とで
補完するような形でそれぞれの案にまで
まとめ上げることができたのだと思う。
どれも極めて興味深い提案で
それに関しては尊敬に値する。
しかし問題はその後だ。
採用された案の提案者は
ハッキリいえば
監修者になってはもらうけれども
実施設計は日本のゼネコンがやるという
コンペの条件を逆手にとってというべきか
簡単にいえば
ザハ・ハディド氏の
橋梁の構造を取り入れて
二本の巨大なキールで
スタジアムを橋げたのように吊るという案の
その肝ともいうべきコンセプトと
デザインテイストを
完全に無視してしまった。
しかしながら選んだ手前
そのカッコウだけは取り入れなければと
もとの案とは似ても似つかぬ
トンデモ案にしてしまった。
あれでは高くつくのも無理はない。
しかし私があんまりだと思うのは
なにも金額のことばかりではない。
そうしろという指示を
誰が出したのかは知らないけれども
あれではザハ・ハディド氏に失礼だし
経過を見る限り
ほかの案が選ばれていたとしても
同じようなことが起きていた危険性があり
そしてこれからもある。
先日安倍首相は
あのプロジェクトを
白紙にして見直すと表明したけれども
それ以降
体制が変わったという話もきかないので
このままでは
同じことが繰り返される危険性というか
恥の上塗りをした上に
結局のところ
前代未聞の早さで急いで取り壊してしまった
良き思い出のある旧国立競技場を
超える建築をつくれないという
事態さえ起きかねない。
考えてみると
安倍政権は
このところ同じようなことを繰り返している。
これが下衆の勘ぐりでなければよいのだが
オリンピックの
プレゼンテーションに間に合わすために
一流の建築家を急がせてパースを描かせたり
世界に向かって発表したから
案はもう変えられないとか言って
案とは似ても似つかないものに勝手に変えたり
あげくの果てに撤回したり
国会で審議する前に
アメリカの議会で
アメリカ軍への協力を約束して
それがあるからと
無理筋の安保法制を無理やり
十把一からげにして強行採決したりと
本末転倒の迷走を続けてばかりいる。
新国立競技場のコンペと同じように
オリンピックそのものも
プレゼンテーションの時の内容とは
ずいぶん変わってきていて
このままではオリンピックを
何のために誰のためにやるのかさえ
分らなくなってしまう。
膨大な財政赤字と
東北の復興と
危険な綱渡りをし続けている
福島の危機的な状況を抱えながら
それでもオリンピックを
税金をかけてやろうというのだから
できることならまっとうな
誰もが喜べるようなものにしていただきたい。
もちろん
日本はいま大変なので
大変申しわけないけれどもできませんと
オリンピックを辞退する選択肢だって
まだ残されてはいる。
スポーツ選手たちには非情かもしれないけれども
ただ、止めることで浮いたお金を
スポーツ振興や選手の育成にまわしたり
スポーツを文化にすることに用いたり
別の場所でのオリンピックで
気持ちよく活躍できるような
環境を整えることにつかうことだってできる。
建築は
ちゃんと手順を踏んで
丁寧につくられてはじめて
その空間を活かす形で
目的に沿った運営がおこなわれる場所となり
新たな幸せを育むことにつながる。
入れる魂が宿らない仏は
ただの物体でしかない。