2011年6月23日木曜日

近代が産んだ巨大な欠陥商品



原発は近代という時代が産出した
巨大な欠陥商品であり
すでに時代遅れの産物というほかない。
近代という時代は大ざっぱに言えば
国民国家、産業化社会、科学という
三つの巨大な幻想の柱に主に支えられてきたが
原発はまるでその三つの幻想の
ネガティブな部分が重なりあって産まれた
ブラックホールのようだ。
近代を支えてきた幻想の一つである
国民国家という概念は
国の主権は国民にあるという建前を持ちながら
結果的、現実的には
国が富めば国民が富むのだからという理屈のもとに
強力な中央集権構造と
国家間の過剰なパワーゲームを産み出し
いつのまにか致命的なほど
国民と国家の関係の主客の転倒を
進行させてしまった。
産業化社会は
物質的な豊かさが
人の幸せにつながるという幻想のもと
また企業の利害が
社員や国の利益でもあるという理屈によって
効率化、分業化が
ほとんど人間のキャパシティを越えて
メカニカルに進行すると同時に
貿易では国家間の条件の取り決めに依存しつつ
同時に世界企業が
国家の枠を超えて活動するという
構造的な矛盾を抱えながら
スケールメリットと利潤を求めて肥大化し
もともと社会的な存在である
会社や産業というものの意味を
見失ったばかりか
金融やエネルギーや情報や食料や
企業そのものをも
マネーゲームの対象とする
巨大マネーの暴走によって
産業化社会という概念そのものの
有効性すら喪なわれてしまうなかで
それでもかつての幻想を追い続けている。
そして科学は
象徴的には19世紀に死んでしまった一神教の神の
絶対的な後継者であるかのように
普遍的真理という幻想のもと
近代という時代を
虹色の光でおおいながら
個別専門分野の突出した研究や開発という
構造的な盲点や
ミクロ的な視野の貧しさから目をそらし
さらには生態系や生命という
地球で命を育む私たちの命や
この星の上で生きていくということの本質と
意味そのものをも無視して暴走し
ついには原水爆や
その関連装置ともいうべき原発をも
私たちの社会の中に作り出してしまった。
これらの近代を牽引した三つの幻想と
それによって構築されたシステムは
どれもヒューマンスケールを超えた時点から
実はその全てにおいて
自動的に主客転倒が生じるような
構造的矛盾を抱えていた。
問題はまず
建前や理屈はともかく実際には
国家や官僚システムは一市民より強く
企業経営者は一社員より強く
科学者や専門家は素人より
優れているとされる構造的現実にあり
近代の幻想の三重奏のなかで
国民より国、社員より会社、働きより手順や仕組
一般の人々の等身大のまっとうな感覚より
複雑怪奇な理論の正当化が優先されるという
絶望的なほどの主客の転倒が
進行してしまうことだ。
ましてや
主役が金であるばかりか
発展し拡大続けるという至上命題と
システムとしての本能を持つ資本主義は
国策と一体になることによって
大国の国家利益や
世界経済を回すためという理屈のもとに
膨大な無駄(余剰)を
世界中で生産し続けてきた。
その最たる物が核爆弾を含む武器と
原発である。
これらのブラックホールの中に
金を吸い込ませることで
資本主義を稼働させ続ける
ポンプのような役割をさせてきた。
こうしたシステムバグともいうべき
構造的矛盾を抱えたまま
アメリカは戦争を繰り返して
しばしば不良在庫を一掃し
先進国は原発を
巨大な商品と化してきた。
私たちの国でも
見ざる言わざる聞かざるを決め込んできた電力会社は
この危機に及んで今
すべては予想できたにもかかわらず
確かな根拠に基づく指摘もあったにもかかわらず
想定外という言葉を理由に
すべての責任と義務を国に転嫁し
国もまた
国策によって原発を推進してきたという
その歴史を検証することも
その非を認めて方向転換することもなく
電力会社と国との関係や
責任の所在を曖昧にしたまま
専門家と称する連中の意見を
恣意的に伝えることで
すべてを曖昧にし続けている。
国家的危機にある今こそ
政府と立法機関である国会は
一刻も早く事態の収拾のために
あらゆる方策と手段を
講じなければならないはずだが
逆に核心的対応から逃げて
コップの中の権力闘争に明け暮れている。
多くの自称科学者や専門家たちもまた
この危機的な事態さえ
まるで一つの実験的事象であるかのような
当事者意識を欠いた虚ろな言説を振りまくか
ただおろおろとするばかり。
この危険極まるたらい回しのような
棄民的なネガティヴスパイラルの中で
深刻な事態だけが進行していく。
原発が近代最大の欠陥商品だという理由は
すでに述べてきたことに加えて
そもそも商品というものは
経済活動というものが始まって以来
原価に経費や利益を乗せたところに価格がある
という原則をはなから逸脱している点にある。
ひとたび事故を起こせば
国土を実質的に消滅させかねない暴力的な装置は
もともとコストも保証もはじきえないが
それに加えて
使用済み核燃料という
電気というエネルギー変換をした後の商品の
生産に伴う副産物を処理する
方法も手段もそのコストも無視しており
全く商品とその生産の体をなしていない。
電気そのものは通常の商品だが
原発の場合
それをつくり出す装置そのものが
資本主義の原理すら逸脱した
致命的な欠陥商品なのだ。
三つの幻想が重なり合う暗部で
国家と産業と科学の
不健康な思惑と利権と思考停止が
複雑に絡みあいながらつくられてきた原発は
国家の後ろ盾を持つ独占民間企業という
奇妙な構造に支えられ
自らが欠陥商品であるという
本質的矛盾を隠ぺいしながら
電気というリアルな商品を生産し
電力会社はそれを
独占的に販売し続けてきた。
原発が時代遅れの装置だという意味は
三つの幻想が
巨大な、地球的な矛盾を明らかに露呈し始めた
1960年代以降もなお
また企業が世界化する中で
企業や経済の仕組みやスケールそのものが
国民国家という概念そのものを
遥かに超えてしまってもなお
さらには地球の生態系が
人間にとって奇跡的にもたらされた
生命的環境であり
近代の未熟で暴力的なテクノロジーが
その繊細な仕組みに
致命的な(あくまで人間にとって)ダメージを
与える危険性があることが明らかになってもなお
まるで近代の幻想を追い続けるかのように
生産し続けられているという点にある。
近代という未熟なシステムの
最大の欠陥は
効率というお題目のもと
すべてが単純化された目的のもとに
細分化され部品化され数値化され分業化され
個別の利害計算に終始するなかで
全体を見通す仕組みを
構造的に排除してしまう点にある。
そこでは国家や企業や社会が
もともとは
人間のためにあるという原則は忘れられ
スケールアウトという限界の存在に
ほとんど無自覚なまま暴走するという
危険を常にはらんでいる。
誰もが危険を知りつつ
それを放置してきてしまったという
無念を抱える私たちは今
一人一人がこの深刻な現実の中にいる。
そして深刻さはすでに
原発事故の被害者に心を寄せるという次元や
すべては自分たちの国が
やってきたことだからと諦めて済む次元を
遥かに超えてしまっている。
たとえば、もし万が一にも
高濃度の汚染水を大海に放出させてしまったら
私たちは
原爆による悲惨を経験した唯一の国でありながら
21世紀の初頭に放射能で
自国と自国の国民を
自らが危機に陥れたばかりか
地球を致命的なまでに汚染した国という歴史と
その国民の一人であるという
無残と重荷を
背負うことになりかねない。
くりかえすが、私たちの国は今
ここにある危険を回避する手だてを
国が総力をあげて講じるとともに
一刻も早くすべての原発を停止させ
そのうえで
近代の未熟な次元の方法論を超えた
人間と人間の健康で美しい営みのための
新たな仕組みを創り出すべき瀬戸際にいる。
そのためにもまず
近代がつくり出した最大の欠陥商品であり
時代遅れも甚だしい原発という
すべてにおいて暴力的な怪物を
一刻も早く私たちの国から
そして地球上から消滅させなければならない。