2016年1月12日火曜日

デヴィッド・ボウイ  DAVID BOWIE


むかし、むかし
空から突然舞い降りてきて
その頃、やや閉塞状態になりかけていた
ロックの世界に
もう一つの広がりを見せる窓を
大きく開け放ってくれた
スターマン、デヴィッドボウイが
2016年1月11日
ロックのもう一つの世界につながる
素晴らしいアルバムを遺して
暗い夜空に向かって天窓を開け放ち
永遠の安らぎを求めて
再び星に、帰って行った。
彼の新しいアルバム『BLACK STAR』が
ちょうど家に届いた時に
TVのニュースで
そのことを知った。
以下は
以前私が書いた『アトランティスロック大陸』
という本の中の
デビッド・ボウイに関する文章です。
追悼の意を込めて
掲載します。
スターマンが、空で僕らを待っている
彼はやってきて、僕らに会いたいと思ってるけど
でも、そんなことをしたら僕らが
イカレちゃうんじゃないかと心配してる
T・レックスのマーク・ボランと共に
いわゆるグラムロックの
その最初の騎手として知られる
デビッド・ボウイは
アトランティス・ロック大陸に見参するにあたって
陸路でも海路でもなく
宇宙から飛来するという
現実とは一旦縁を切った新奇で物語的な方法を
敢えて採った。
それは彼のひらめきに基づくと同時に
ある意味では
計算し尽くした結果としての
極めて聡明な虚構でもあっただろう。
何故なら
すでに創世記を終えたアトランティスで
居並ぶパイオニアたちと
同じ土俵で競い合うことは
不可能であると同時に無意味でもあり
かといって
単に後に続く者となるには
ボウイは余りにもクールであり
またシーンの内輪の空気を
吸いすぎていたようにも思われる。
どんな世界でもそうだが
一つの出来上がったシーンに
新たに登場しようと思えば
ある種の蛮勇が
さもなければ緻密な戦略性がいる。
なぜなら
そこにはすでに磁場のようなものがあり
そこで新たな者として生きていくためには
その磁場に平然と耐えて歩むだけの力が
あるいは
それを利用して舞い上がって見せるだけの
技や独創がいる。
もちろん
何かが新たに始まる時は
必ずしもそうではない。
何かを始めた者は
それを始めずにはいられなかった勢いに駆られて
なぜか自らの身体が感じた
一瞬の確かさだけを頼りに
行く先も分からぬまま
後先など考えずに前へ前へと進む。
そして、その者の斬新な振る舞いを見て
わけもなく感応した者が
間髪を入れずに後を追い
あるいは
それとは少し違った方向に走り出す。
一人。そしてもう一人。
当然のことながら
後から走り出した者が
先に行く者を追い越す場合もある。
それを見て
より速く走る者や新たに歩き始める者
そうして互いに他を呼び
競いながら走る者たちの一団は
やがて
一つの同じような波長を持った者たちの塊として
周囲とは明らかに異なる熱を放ち始める。
そんな塊が、それまでは
存在することすら知られていなかった
荒野を転がるように進んだ後には
やがて獣道のような道が残る。
そして塊が放つ熱に、あるいは
そこから巻き起こる熱に浮かれた者たちが
さらに巨大な群をなして獣道を行く。
そのとき獣道はすでに
細く曲がりくねった獣道ではない。
それはすでに
まるでメインストリートのようであり
そこから
いくつものハイウエイネットワークが
いつの間にか迷路のように張り巡らされている。
そんなハイウエイの上を
新しく来た者たちが群をなして走る。
そして、かつては獣のようなならず者であり
すでに伝説的な存在となった
先陣を切った者たちもまた同じようにその上を走る。
一つのムーブメントが
一つの日常的なシーンとして
社会のなかに組み込まれていく。
繰り返すが
そんなシーンの中に新たに登場するには
多くの場合、ある種の蛮勇がいる。
だが蛮勇は求めて身に付けるようなものではなく
直接熱病に触れた少年少女の特権としての
無知や夢想が
あるいはムーブメントの中心を遠く離れた
辺境の地場にいながら
メディアを通して熱病に
感染してしまった者の孤独が
結果として、知らず蛮勇を生む。
しかしデヴィッド・ボウイはそうではない。
彼は場所的にも時期的にも
ムーブメントの真っ直中にいて
巡り合わせという偶然の魔法が働けば
ディランにも、ミックジャガーにも
なれたかもしれないと思わせるような
何かを持っていながら
ほんの少し彼らより微妙に若かったために
あるいは、おそらくほんの少し
他の無鉄砲な少年たちよりは
微妙に屈折した素直さを持った
オリコウなマセガキであったために
最初のスタートダッシュのチャンスを
つい逃してしまったように見える。
そしてそれは
彼の聡明さの証であったようにも見える。
極めて直感的な独断だが
ボウイは、おそらく自らとその才能の
その時期ならではの特異性
すなわち「狂気の不在」を
自ら自覚していたのではないかと思われる。
そんな彼が選んだ
一発逆転のホームランが
アトランティスロック大陸に
宇宙人として見参するという
自作自演の虚構だった。
窓の外を見てごらん、輝く彼の光が見える
もし僕らも輝くことが出来たら今夜にでも
彼は地上に降りてきてくれる
パパには内緒だよ、じゃないと彼を怖れて
僕らを部屋に閉じこめちゃうかもしれないからね。
表現やその可能性には限界がない。
時代には終わりがない。
どんなに行き止まりのように見える路にも
必ずその先に新たな可能性がある。
時代には続きがある。
その時代を生き始める
新たな少年少女たちがいる。
だがそのことは通常
新たな可能性が
実際に拓かれるまでは分からない。
刻々と変化する新たな時代を
生きてみなければ分からない。
考えてみればロックは
常に社会や時代や
それを変革する新たな価値と共に進んできた。
そして一人の今を生きる表現者として
それらと真っ正面から生身で向かい合うことで
進化してきた。
それが、ディランが開けた扉であり
ビートルズが歩んだ路でもあった。
だが、ベトナム戦争はそれでも終わらず
それどころか、戦争はむしろ飛び火し
日本では浅間山荘事件が起きた。
オリンピックという平和の祭典という幻想すら
テロによって打ち砕かれた。
ロックはすでに成熟しきった感があり
プロフェッショナルな見事さとは裏腹に
かつてのような、ときめくような生身の感覚が
急激に失われていくようにも思われた。
そんな精神的な袋小路のような状況の中で
どの路を走っても
壁に突き当たってしまうのなら
いっそ地面から一度縁を切って浮游し
その状況を
空から眺めるという方法もあるではないかと
つまりは虚構という
長い間なんとなく皆が忘れていた
表現が持つもう一つのフィールドに
注目したのがデビッド・ボウイだった。
余談だが、確か1972~3年頃
原宿に山本寛斎がオープンした
ブティックの外壁には
彼のデザインしたきらびやかな衣装を着た
デビッド・ボウイの巨大なパネルが貼られていた。
そしてそれは
それまでのミュージシャンのファッションとは
異質な次元の新しさを放っていた。
アトランティスは、明らかに
別の時代の

別の次元の展開に向かって進んでいた。